月と海の万華鏡
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          ・いつも側にいてくれるFへ・

  「眠るなよ」
 そう言うかのように、彼は私の服を引っ張った。
 私はアクビのしすぎで涙のたまった目を彼に向けた。
 私たちは小さな木のボートで、海の上を散歩していた。
 大きな満月の光が優しく辺りを包み込む、そんな夜に。
  「だって、退屈なんだもん」
 私は右手を少しだけ海水に浸し、そのまま彼の方に水を飛ばしてやった。
 彼は、少しムッとしたような顔をして、服の袖で顔を拭きはじめた。
 何となく楽しくて、また私は右手を浸した。
 ふと前方を見やると、少し向こうに同じようなボートが浮かんでいた。
 麦わら帽子を被ったおじいさんが一人、揺られていた。
 あの人も退屈なのかな、と私は思った。
 途端におじいさんはこっちを見た。
  「退屈なんかじゃ、ないよ」
 おじいさんは白い歯を見せてニッと笑った。
 私は驚いて、ボートもろとも海に落っこちてしまうところだった。
  「満月の夜はね、いろいろなモノが見えるんだよ。」
 おじいさんはおかまいなしに話し続ける。
  「おまえさんも、目をよぉくこらしてごらん……。」
 おじいさんの声には魔力があった。
 私は操られるがままに、一心に前を見つめた。
 おじいさんの麦わら帽子の、その、向こう。


 その向こうに、四人の家族が見えた。
 ところどころに赤や緑や黄色のネオンが輝く、小さな街の裏通り。
 お兄さんと思われる子が小さな女の子の手を引いて、両親の後を追いかけていた。
 四人は楽しそうに笑いながら、小さなお店に入っていった。
 四人のいなくなった裏通りは、とても薄暗くなってしまった。
      (( ドウシテ 満月ノ光ハ 届カナインダロウカ ))

 私はもっと遠くに焦点をあわしてみた。
 その向こうに、砂漠を一人で歩く女性の姿が見えた。
 目に冷たい光を宿して、たった独りで砂の中を進んでゆく。
 強いな、って思った。
 私には、独りきりで進んでゆける自信がないから。
 その人の着ている真黒なチャドルは、月の光をも拒絶しているかのようだった。
      (( 本当ノ 強サッテ 何ダロウカ ))

 まだまだじっと遠くを見てみた。
 ずっと遠くに二匹のキリンが見えた。
 月光に照らされたその姿はとても穏やかで。
 仲良く歩いていて、まるで平和の象徴のようだった。
 ふと、月が雲に隠れる。
 シルエットが一つしか見えなかったような気がした。
      (( 平和ハ 目ニ 見エルノダロウカ ))

 さらに、目をこらしてみる。
 一人の少女が、テラスで手紙を書いていた。
 滑るようにペンが進む。
 きっと、話したいことがたくさんあるんだろうな。
 月明かりの下、幸せそうにほほ笑んでいた。
 けれども、気のせいかな。
 彼女の目に何かが光ったように見えた。
      (( 本当ニ 幸セカナンテ ワカラナイ ))

 もっと遠くを見つめる。
 海が静かに広がっていた。
 月の光で彩られている海面は神秘的なほど澄みきっていて、吸い込まれそうだった。
 けれども、なぜだろう、胸が痛む。
 波の音を聴いているうちに、その理由が少しだけ分かった。
 その波の音は、誰かの泣き声のようだった。
 ふと思う。
 彼女の涙はここへ流れ着いたのか、と。
 世界中の人の涙が、ここへ。
      (( 海は 涙の味だもの ))

 もう、限界ってトコまで目をこらしてみた。
 薄暗い月の光に、誰かの後姿がぼんやり見える。
 体を乗り出して、さらに目を見張る。
 誰か分かって、私は息を呑んだ。
 彼だった。
 私と一緒に、ボートに乗っているはずの。
 側にいると思っていた彼が、あんな遠くにいたの。
 寂しそうな後姿。
 服の袖で顔を拭く。
    アナタガ フイテイタノハ 涙 ダッタノ?
 お願い、行かないで。 待っていて。
 私が、側に、行くから……。

 

 ドボーン。。。
 はっとして辺りを見渡すと、私は海の中に落ちてしまっていた。
 すぐ目の前に木のボート。
 その上に、彼はいない――。
  「「バカ!」」
 突然彼の声がして、何かを言おうとする前にその胸に押しつけられた。
  「何やってんだよ……」
 彼はそう言いながら、あの服の袖で私のホオを拭いてくれた。
  「ごめんね……」
 私の涙が海になる。
  「ずっと側にいるからね」
 彼は少し驚いていたみたいだったけれど、優しくほほ笑んでくれた。

 今、私のトコロに月光が届くということ、強くなれるということ、幸せであること。
 そして、彼がいてくれるということ。
 月下のおじいさんが気付かせてくれた、当たり前のようで大切なこと。
 ずっと、大切にしていきたい。

                                                 = Fin =



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